脳脊髄液減少症とは?

1)願い

長野県・長野県立長野西高等学校・三年

石井 瀬奈

私は中学二年生の春、病気になった。ある日突然激しいめまいと吐き気に襲われて、立っていることが困難になった。学校代表選手として陸上の大会を控えた四日前の出来事である。大会は棄権した。その後、私の身体は良くなるどころか日に日に症状が増えて、悪化していった。めまいと吐き気に加え、耐え難い頭痛や四肢の痛み、全身倦怠、思考障害などに悩まされ、この時既に起き上がることが出来なくなっていた。所属していたバスケ部は勿論、学校にさえもほとんど行けなくなった私を待っていたのは、ほぼ寝たきりの生活だった。

自宅の天井を見つめるだけの毎日。発症から三ヶ月、四ヶ月たっても、病名は分からなかった。ドクターショッピングを繰り返し、様々な検査を数え切れないほどしたが、どこの病院へ行っても原因不明。どんなに薬を飲んで対症療法を行っても、症状が止むことはなく、周囲からは単に怠けているだけじゃないかと言われ、酷く傷ついた。本当は学校に行きたいのに行けない。動きたいのに動けない。ただ寝ている事しか出来なくて絶望する私を、母が必死になって支えてくれた。会社と病院と家を毎日往復し、必ず治るからと励ましてくれた。同じ頃、部活のコーチからも一通の手紙を貰った。『必ず治してコートに戻って来い。待っているから。』という内容だった。短い文章だったが、嬉しかった。私は必ず治してもう一度コートに立つと決意した。

病名が分かったのは発症から半年後だった。

病院の医師ではなく、母が必死に調べ、見つけ出してくれた。私は『脳脊髄液減少症』という病気だった。この病気は髄液が漏れることによって脳が下がり、中枢神経が引っ張られ、脳の機能が低下し、様々な症状を引き起こすというものだ。未だ厚生労働省の認可が得られていないため、治療費は保険適用外。

更には周囲の認知も乏しいので、患者は経済的にも精神的にも苦しめられる。

主な発症原因が頭や身体への強い衝撃であり、誰でもなってしまう可能性を秘めている病気である。患者の中には生きていくことすら諦め自ら命を絶つ者もいると聞く。自分がそんな病気になってしまったことが怖くて信じられなかっ私は県内の大学病院に入院をした。しかし、治療は出来ないと断られた。安静にすれば治ると言われ、保存的治療を薦められた。真冬の寒い時期、近くの医院に毎朝点滴を受けに通ったが、やはり治ることはなかった。

母は諦めず、治療を専門的に行っている病院を探してきた。そして、私は母に連れられ東京の山王病院にいるという専門医の先生を尋ねた。山王病院の先生は、迷う事なく治療を薦めてくれた。すぐに治る病気ではないが、治療をすれば少しずつ回復していくからと、これまでの医師とは違った前向きな言葉を私に投げかけてくれた。私はこの病院が最後の砦だと思い、僅かな希望を託し治療は腰に針を刺すブラッドパッチというものだった。激痛を全身に伴う治療だったが、治療後は身体が少し楽になり、学校にも週に一度くらいではあったけれど、以前よりは行けるようになった。

しかし、それでも重い身体を引きずりながらの登校は過酷だった。立っている事が辛くて保健室へ行っても、病気を軽視され、早く教室に戻りなさいと追い出された。具合の悪い身体で教室へ行く辛さを今でも忘れられない。震える足で教室へ向かった。いつ倒れるか分からない恐怖に苛まれながらも、友達に心配をかけないように、明るく振る舞うことしか出来ない自分が悔しくて情けなかった。

もうどこにも居場所がなくなっていた。哀しくて、よく校舎裏で泣きじゃくった。ここなら誰にも見つからないから。老朽化で壊されていく体育館をぼんやり眺めながら、涙が枯れるのを待った。オールコートを駆け抜けた日々が、古い体育館と共に崩れ去っていく。あの体育館でバスケをしていた事が嘘のようだった。いつかのコーチの言葉が脳裏に浮かんだ。しかし、健康だった私はもういない。あの時の決意は潰え、私は引退戦を前に退部した。

病気になってからの私は、ひとつずつ成し遂げたかった多くを諦めてきた。

辛い決断をせざるを得ない現実の分だけ涙も流した。そして、憧れていた地元の進学校を諦め、長野西高校通信制に入学した。不本意だった決断。でも今は、この学校へ入学して本当に良かったと思っている。通信制の週一回の登校は、私の心と身体を休ませてくれた。生徒会にも所属するようになり、今年度からは副会長の役も任せられた。今では毎週の登校が楽しくて仕方ない。私がまたこうして前を向けるようになったのは、どんな時でも一生懸命尽くしてくれた母と、通信制で出会った暖かな人達のおかげだと思う。具合が悪い日もまだ沢山あるけれど、視界が歪む事のない日常は、私にとって何よりの宝物だ。当たり前に過ごせる何気ない日々が、こんなにも素敵で幸せに満ちていることに気付けて、とてもうれしい。

長野西高校へ入学したことも、脳脊髄液減少症になってしまったことも、きっと私の糧となるだろう。これまで意に反した選択を沢山してきたけれど、二十年、三十年先にふと振り返った時、懸命に過ごした毎日がかけがえのないものだったと誇らしく思いたい。だから諦めるしかなかった辛い日々も、悔しさも、悲しさも、決して無駄にはしない。

その為に、今は病気をしっかり治してゆこうと思う。健康になることが、私を支えてくれた人達への一番の恩返しであるから。そして、私が健康に戻るには、この病気で理解を得られずに苦しむ人がひとりでも少なくなっていてほそんな日が、いつか来ることを、願って。